波宇志別神社 (はうしわけじんじゃ)へ 2019/5/13
車のナビと標識を頼りに、秋田県、波宇志別神社へ伺いました。
そう、前回お話した、島根県の売豆紀神社の神様 下照姫様のお話で登場した波宇志別の神様にお会いするためです。
途中の山道は多くのところでガードレールが崩れていたりして、冬の間の雪の凄まじさを感じます。
壊れたガードレールを横目に見ながら慎重に車を進めます。
しばらく進むと、保呂羽山登山
登山口と書かれた駐車場に辿り着きました。
保呂羽山
保呂羽山は、出羽山地の中でも三角形をした目立つ山で、秋田県横手市の西側に位置しています。古くから山岳信仰の霊地として知られているそうです。
昔、この山に沢山の鷹が飛んでいたので 「保呂羽山」と名付けられたということです。
山頂に、波宇志別神社本殿 奥宮が鎮座し、山そのものをご神体としているそうです。
古来から修験道の霊場として栄え、仏教が広まると、神仏習合の教えから、保呂羽山は山伏が修行する 修験の山 となっていきました。
江戸時代、秋田藩の藩主 佐竹氏は、保呂羽山に対する信仰が厚く、この神社によく参詣したそうです。
保呂羽山は、秋田藩 八沢木村と亀田藩 羽広村との藩境にあったため、境界あらそいが百年以上も続いたそうです。
そして、文化10年(1813年)に、両者の立ち会いのもと 境塚 を14カ所築いて、争いは幕を閉じたそうです。
駐車場に車を止め頂上まで歩きます。
約40分ほどです。
登山口からしばらくは、車でも行けそうなアスファルトの道が続きます。
ですが、誰とも会わず、木々の中から熊か何か出てきそうな雰囲気でドキドキします。
しばらく行くと、いよいよ山道に入ります。
入り口には、やはり熊よけと思われる、缶の鳴らし物がありました。
ドキドキしながら進みます。
かご立場
山道を少し行くと、「駕籠立場」という所に着きます。
佐竹藩のお殿様は、ここまで籠できて、ここからは歩いてお登りになったそうです。
下居堂(おりいどう)
昔は、保呂羽山は女人禁制でしたので、女の人達は、山頂の本殿ではなく、この下居堂で神様にお参りしたと云われています。
保呂羽山は、昭和四十年まで女人禁制だったそうで、本当に最近まで、女性はここでお参りしたのですね。
子守岩
女人禁制の保呂羽山。
ある時、子守に夢中になった女の人が、ついつい参道に入ってしまったそうです。
そのため神様の怒りに触れ、石にされたと伝えられています。
子供を背負っている女性に見えます。
一夜盛
昔はこの辺りは、峰を境に領地が分けられていて、領地を広げようとした佐竹藩が、峰と峰の間に土を盛り、一晩で峰続きにしたという云われがあるそうです。
そのことから、この場所に「一夜盛」という名が付いたそうです。
気がついたら、結構な標高まで登ってきたみたいです。
岩割りの木
偶然、岩のくぼみに小さな種が落ち、わずかな割れ目に根を伸ばしました。
やがて種は苗となり岩を割って成長を続けました。
そして何百年もの後、小さな種は立派なブナの木になりました。
すごく綺麗な生命力が、みずみずしく溢れ、広がっていました。
感動して、しばらく立ちすくみました。
鉄の鎖
途中何カ所も難所があります。
その中でも、鉄の鎖につかまって崖を登る所があります。
これにはさすがに驚きましたが、テンションが上がりワクワクしてきました。
重たい鉄の鎖を持ち、一歩一歩慎重に登ります。
波宇志別神社 本殿
幾つかの難所を越えて、
素晴らしい景色を眺め、
無心になっていった頃
、
山頂の波宇志別神社本殿に辿り着きました。
本殿は威風堂々と暖かく迎えてくれました。
波宇志別神社
奈良時代、天平宝字元年(757年)の創立。
御祭神 安閑天皇
延喜式神明帳に載る式内社で、
波宇志別神とは、農業の神様だとも云われているそうです
気品のあるオーラは安心感を与えて下さいました。
本殿の屋根の四方には、辺りを見守るように神様がいらっしゃいました。
今回の目的は、この波宇志別の神様にお逢いするため。
ようやくお逢いできました。
そして、
こちらが、神無月に全国の神様が出雲にお集まりになる際、
島根県松江市の売豆紀神社の神様、下照姫様の物語に登場した、情熱的な神様なのだなぁぁぁと。(私が勝手に情熱的だと思ってしまったのですが、、。)
お逢いできたことに、嬉しくて、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
帰路 次回
しばらく、同じ時間を過ごし、後ろ髪を引かれながら、お別れすることに、、。
帰りも無事にもどれますように、
また来ます。
と、
ご挨拶をして、
御山を下りることにしました。
そして、
宮司様のいらっしゃる、御山の麓の
波宇志別神社 里宮神殿へ
うかがうことにします。
次回は
波宇志別の神様と下照姫様
「波宇志別神社 里宮神殿」と
「霜月神楽」です。